善人の怖さ

この前
久しぶりに面白い本を読みました。
かなり気に入ったので、
これを「108回音読する元型」の副教材にしようと思います。

ところで
その本のことを紹介する前に
108回の教材は、これまで、こんな反応があります。

1、いたたたたた……これ、私やっていますー
2、読んでいると気分が悪くなります。
 私には向いていません。
3、そういう人、いるよね~私の周りにもいますよ。

というものです。

少し解説すると、

1、いたたたたた……これ、私やっていますー

という反応をするのは
自分の姿を直視出来る、
自分に対する繊細な観察力と強さを持っている人かもしれません。

2、読んでいると気分が悪くなります。

これは、どうしても、私には向いていません。
という反応をするのは
気分がよくなって楽になる事を求めている人かもしれません。

マイナスのものは見たくない
触りたくない。
自分がそれをしている事に
実はうっすら気付いているのだけど
それを認めると
日々の生活をやっていけないと思っているので、
「私はは違う」にしがみつこうとする人。

3、そういう人、いるよね~私の周りにもいますよ。

という反応をするのは、
私は違う、そうではない、と信じていたい人です。
常に自分は
そういう人たちのとばっちりを受けている被害者…だと思いたい。
他人の事はよく見えるけど
自分の事は見えない人です。

だいたい
大きくわけてこんな感じになります。

わたしとしては
このメルマガや108回の教材は
2や3の所にいる方が
なるべく1に近づけるようになって欲しい、という意図と

1の所にいる人には
そのまま自己批判に終わるのではなく、
次のステージに行ってもらう事を意図しています。

という書き方をすると
2や3の反応をするのは「悪い」ことなのですか?

という質問が
来そうな気がするのですが
そうではないのです。

このブログで何度もいっているように
「いい悪い」には私は興味がありません。

ただ進化して次の段階に行って欲しい
そのためにはこの事に気付いて
自分のエゴ様に直面する必要があるのでは…、というだけなのです。

「エゴ様」という病から
少しでも回復して欲しいのです。

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 ◆ニーチェ曰く
 
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前置きはそのくらいにして
私が気に入ったこの本のタイトル

『善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学』 (角川oneテーマ21) 

について少しお話します。

私は哲学者の中島さんの本を読むのは始めてでした。
この本は
ニーチェを40年読み込み
さらに「ツァラトゥストラ」をご自身の「哲学塾・カント」で読み込んで来た
中島さんの集大成と言えるようです。

中島さんは
徹底した猛烈な、微塵の妥協もない視線で
自分自身のウソ、現代人の欺瞞に切り込む人ですが。

え、正直、ここまでストレートに言ってしまってもいいのですか?
と私は最初に思いました。

つまり
彼に比べると、私も
本当にいいたい事をストレートには言っていない
という事実に気付いたのです。
それは私が「善人」でいたいからです。

などと漠然と、書いても分からないでしょうね。
という事で
この本に書かれている事を少しご紹介します。

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 ◆弱者の定義
 
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読書案内として書けば
この本の

第一章「善人と弱者」
第二章「善人は安全を求める」

このあたりは必読です。

それ以降も面白いのですが
以降は、ニーチェという人物の分析がかなり入ってきて、
トーンが随分変わってきます。

この本は、他人事として読むととても安全なのですが
それでは意味がありません。

ここに書かれているのは全て自分の事だ、
という前提で読むといいと思います。

まず第一章の冒頭に
「弱者」の定義があります。

弱者とは、自分が弱いことを骨の随まで自覚しているが
それに自責の念を覚えるのでもなく
むしろ自分が弱いことを全身で「正当化」する人のことである。

これはオルテガの「大衆」の定義にほぼ一致しています。

大衆とは
よい意味でも悪い意味でも
自分自身に特殊な価値を認めようとはせず
自分は「すべての人」と同じであると感じ
そのことに苦痛を覚えるどころか
他の人々と同一であると感ずることに
喜びを見いだしているすべての人のことである。

これですね。

中島さんは
このオルテガの文章の「大衆」という言葉を
「弱者」に置き換えてみると、ほぼ同じ意味になる、と解説していています。

確かにそうですね。

日本人の文化は
人と違っている事ではなく
人と同じである事に価値がありますから
これはなおさらそうですよね。
耳の痛い事ですね。

思考を止めて静かな何もない心でいる時間を増やすのです

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 ◆何が一番、安全なのか
 
☆。.:*.。…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─….*:゜。☆

ただし、私の所にご相談に来られる方の中には
少し雰囲気の違う方もいらっしゃいます。

それは、自分の弱さを充分に自覚していながら
そしてそれをなんとかしたいし
なんとかしないと生きていけない
ゆえに、その葛藤が、とても苦しい…。

でも、どうしようもなく
自分は弱い。

私には何も出来ない
だから、どうしたらいいのか分からない…

という煩悶を抱えます。

その弱さゆえに
神経症傾向を持っている方もいらっしゃいます。
そこまで行かなくても
強烈な思考・行動パターンがあるからこそ
それに縛られ、どうしても行動する事が出来ずに苦しい…

極端に言ってしまえば
結局、行動したくないという見方もあります。

変わりたくないんです。

変化が起きる時には、痛みや苦痛なく
特に大きな努力もなく、ある朝突然にいい変化が起きて
全てがうまくいくようになる。

そんな妄想の未来を求めているんです。
でも、それは起きるはずがないので
「いつかきっと王子様が…」と夢を見つづける事になってしまいます。

弱者のままでいることで
実は心地いい、ということは、ありえます。

このままではダメだ
という声に追い立てられているようであっても
それは自分が惰性な人間だと思われたくないからです。

全く努力しない人間だと認めたくないからです。

動けないいいわけとして、
挙げようとすれば、無限に出てきます

・神経症傾向を使ったり、
・身体的な病気を使ったり、
・強烈な思考・行動パターンを使ったり、
・仕事が忙しい、
・親や親戚が許さない、
・お金がない時間がない、
・遺伝子のせいだ、
・劣悪な環境のせいだ、
・偶然ふって湧いた不運のゆえに、
・社会が悪い、
・制度が悪い
・自分は弱くて無理、

など、被害者になったりしているだけなのです。

そして中島さん流に言うと、
以下は引用ですが

——–

自分は確かに弱い、だが、何といっても自分は「正しい」のだ。
だがこの宣言は自分を自分で騙す
「自己欺瞞」であるから、
常に、そう思い込む努力をしなければならない(でないと崩壊する)

ここで弱者はー
実に聡明なことに一つの大がかりな価値転換を企てる。

自分は弱いけれど正しいのではない。
自分は弱いゆえに正しいのだ!

すなわち、自分はそのいずれも
自分自身に責任を帰することができない膨大な欠陥を負わさせている犠牲者である。

自分は理不尽に苦しみを背負っている被害者であるゆえに
「正しい」のだ。

そして生まれつきの資質に恵まれたもの
結果として報われた者は
その苦しみを背負っていないがゆえに「正しくない」のだ。

こうして、自分が弱いことを
全身で正当化する弱者、すなわち「善良な弱者」が完成するのである。

なぜ弱者はかくも聡明なのか?
なぜなら、彼らは、それこそ弱者のまま自殺せず
絶望せずにどうにか生き抜くことのできる
唯一の道であることを知っているからである。

ーーーーーーーーーーー

この最後の文章
「それこそ弱者のまま自殺せず、絶望せずに
どうにか生き抜くことのできる唯一の道であることを知っている」

は、確かにその通りだと思います。

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 ◆私も、その一人です
 
☆。.:*.。…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─….*:゜。☆

ところで、皆さんも
こうすればいい、と分かっているのに
行動していない事、ありませんか?

私はあります。

私が使っている
行動しない言い訳は、

私が働いて家族を養っているので
仕事の時間を減らすと食べて行けなくなる。
だから私には時間がなくて、それが出来ない。

です。
私は女ながらに家族を支えている善人で
本当に頑張っているけど
これ以上どうしようもない弱者で
だから「正しい」ということです。

さらに
「これではダメだ、このままではきっと後悔する」
という自責の念がスパイスになって
日々の生活に刺激を与えてくれています。

私はこの位置に
居座り続けたいと思ってしまっているのです。

あなたはどうですか?
そういう事、していませんか?

☆。.:*.。…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─….*:゜。☆
 
 ◆援助職の難しさ
 
☆。.:*.。…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─….*:゜。☆

哲学者は
カウンセラーと違って
ある意味、目の前に来られた方に共感する必要などないので、
ただひたすら
観察して真実を見抜いてゆくのですね。

人間関係を
よりよく保つためにも、
カウンセラーやセラピストとして腕を上げてゆくためには
「共感」能力は必須なのですが
ここに一つ落とし穴があるな、と思います。

下手な共感は
相手への同情と同じで、善良で弱くて傲慢で要求がましいくせに
行動しない事を、どうしても正当化してしまいます。
それを「傷つき、なめあいクラブ」と呼んでもいいでしょう。

援助職についている方は
この中島さんの本を真剣に読まれるといいです。
助けているつもりで
相手の罠に引っかかってしまうことがないように。

☆。.:*.。…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─….*:゜。☆
 
 ◆最後に再び
 
☆。.:*.。…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─….*:゜。☆

中島さんはニーチェを引用しつつ、次のような事を書かれていますので
抜粋します。

———–

善人は、とに、偶然や事故や禍を忌み嫌う。
自分ないし自分の身内が天災や人災に遭うと
「なぜ、この俺が!」と泣きわめく。
何かの間違いではないか、と言いたげである。
そして、嗚咽しながら「何の罪もないこの子に!」と告発(誰に対して?)は続く。
よくよく肝に銘じてもらいたい。
天災や人災は、何の意味もなくただ起こるのだ。

——–

これは、以前に、私も
書いたことがあります
そして、引用を続けますが

(ニーチェの言う)「運命愛」とは
わが身に降りかかってきたことと
私が引き起こしたこととのあいだの差異が
最小だということを自覚することである。

わが身に降りかかってきた(ように見える)ことでも
何らかの仕方で私が関わっているのであり
私が引き起こした(ように見える)ことでも
それ以外の膨大な要因が関わっているのだ。

だが、ここに留まらない。
運命愛とは、同時に「実践」の問題である。
すなわち、以上の認識に加えて、真の原因がまったくわからないのなら
私が実現したすべての行為において
私以外の他の原因あるいは未知の原因を並べ立てて責任を回避するのではなく、
「私が」みずから意志した(引き起こした)かのようにみなせ、という事である。
これは、まさに強者の論理であり、その論理の体現者が「超人」なのだ。

ーーーーーーーーーーーーーー

これは「ホ・オポノポノ」を実践させている方なら
納得出来るでしょう。
自分の前に提示される全ての出来事に、自分は責任がある
だからこそ、自分が自ら実践する、という立場です。
スピリチュアルな知識なしに
この認識に至るのはすごい、と思います。

これを私流に言い直すと、こうなります。

善人で弱者の立場から抜け出して、
つまり
「犠牲者」「子供」「売春婦」「つぶし屋」の自分から抜け出して、
自分の人生に責任を持つ事。

自分の人生に起きる全ての事の責任は
自分にある、と自覚すること。
そして人生をかけて目指すものに邁進し
愛を体現してゆくことが、私の言う「進化」なのです。

猫背の人は天使なのかも~