なぜ「死」は忌み嫌われるのか

なぜ「死」は忌み嫌われるのか

こんにちは、フェアリーブルーの福本いずみです。
今日も少し重い話題ですが、
全力投球で書きます。




古来から「死」は「不浄」とされてきました。
スピリチュアルな成長をした人にとっては「祝福」ですが、
未だに多くの方にとっては「不浄」ですよね。



昨日、我が家のペットのにゃんちゅうの事を書きましたが、
今朝がた、眠るように穏やかに旅立ちました。

にゃんちゅうが数ヶ月かけて見せてくれた「死にゆく過程」を思い出しながら、
なぜ「死」が忌み嫌われるのか、考えてみました。

それで1つその理由が分かりました。




私たちの多くは、肉体を自分自身だと思っているからです。
猫の身体を猫だと思い、
自分の身体を自分だと思っているからです。


これが結論です。





どういう事かというと、

数日前からにゃんちゅうにはハッキリとした死相が現れて、
日毎に死に近づいていきました。
それは、魂が身体から抜け出ていこうとする過程です。

人間も動物も、生まれる頃にその肉体の中に魂が降下して来ます。
肉体という物質に、霊という生命力と魂が宿り、
それが赤ちゃんとしてこの世に誕生するのです。


霊・生命力はある目的のために肉体を必要としています。
その目的を直接果たすのは、実は魂です。

ただ、私たちの肉体・パーソナリティがあまりにも未熟で光を通さないために、
気が遠くなるほどたくさんの輪廻を繰り返しながら、
浄化しながら、成長していきます。

私たち人間の目標の1つは、
魂の道具となれるレベルに成長することです。




今入っている肉体の消費期限が切れると、
魂は今回の人生を終了させて、次の転生の準備に入ります。

今朝、にゃんちゅうにもその「魂の撤退」の瞬間が訪れました。
にゃんちゅうの本当の実体である「魂」が、
肉体とのコネクトを解除して天界に戻っていきました。
そこには抜け殻の肉体だけが残されています。


多くの方にとって、
つまりまだ目に見えるものがリアルなものだと信じている段階の人にとっては、

にゃんちゅうは、すべすべの手触りの毛並みであり、
好きなご飯をもらった時の嬉しそうな食べ方であり、
布団の中に潜り込んでくる暖かさや柔らかさであり、
かまって欲しくて背中を見せる仕草です。

そういった目に見えるものが、にゃんちゅうなのです。



スピリチュアル的に進化しつつある人にとっては、
にゃんちゅうにそのような行動を取らせる、
にゃんちゅうの背後にあってにゃんちゅうを動かしている、
生き生きとした生命エネルギーや、
様々な行動を通して私たちに恩恵を与えてくれるものこそがにゃんちゅうです。

身体や仕草という物体の背後にあり、
にゃんちゅうをにゃんちゅうたらしめている何か、が魂であり、
それこそが、にゃんちゅうという存在のリアルな実体なのです。



そして消費期限の過ぎた肉体から、
にゃんちゅうは魂を引き上げて天界に戻りました。

残された肉体は、実体である魂の存在しない「亡骸」でしかありません。


魂が抜けた後の肉体って、本当に「亡骸」という表現がぴったりですよね。
そこには何もないです。
もぬけの殻。
その人だったもののカケラも、そこには残っていません。

多くの場合、生きている間に浄化しきれなかった、
肉体に残っているネガティブなエネルギーがとても目立ちます。



もし肉体こそがにゃんちゅうだと思っていたら、
そのような肉体の見かけの劇的な変化は、とてもショックでしょう。
あんなに可愛くてフワフワで極上のしぐさを見せてくれたものが、
妙にネガティブなエネルギーだけが目立つ、中身のないガラン堂になっている。。。。。

死がその人らしさ、その人そのもの、にゃんちゅうそのものを奪ったように感じるでしょう。

肉体がその存在そのものだと信じているのですから、
見る影もなく変貌してしまった亡骸がその人だという事ですから、

「死は不浄」だと感じるのも当然ですね。
死がその人の良い部分を全て破壊して、命を奪っていった、と感じるでしょう。
とすれば、死は避けられないけれど、なんとか先延ばしにして避けたいもの、になるでしょう。




でも、スピリチュアル的に進化した人ならば、
魂こそがにゃんちゅうだと分かっていれば、

にゃんちゅうの本当にリアルに存在する本質、魂が天界に戻っていったから、
素晴らしく良いものは引き上げられたから、
素晴らしくないもの、ネガティブなものだけが残されたのだと分かります。

寿命を迎えた魂にとっては、
その身体はもはやその時の魂にふさわしくない低いレベルになっています。
だから魂のレベルに見合う、次のよりよい身体に乗り換えるために、
天界にもどったのです。

思うように動かなくて、あちこち不調のある狭い身体に閉じ込められているのは、
魂にとってもとても苦痛な時間のようです。

ですから、魂にとって「死は解放、死は祝福」なのです。




今回、にゃんちゅうが死にゆく姿を克明に見せてくれたおかげで、
そして魂が抜けた後の身体の劇的なエネルギー変化を感じさせてくれたおかげで、


魂は本当に存在するのだ、


という実感・確信を私はさらに強く持ちました。
魂が実在していて、それが抜け出すからこそ、
あれほどの劇的な変化が起きるのです。



まとめます。

肉体が自分自身、目に見えるものだけが存在している、と信じる段階にいる人にとって、
「死は呪い」であり「死は不浄」です。


魂が自分自身、目に見えないエネルギーこそが実在だと信じる段階にいる人にとって、
「死は解放」であり「死は祝福」なのです。




午後、にゃんちゅうの肉体は火葬されて、小さな骨壷に入って戻って来ました。

骨壷の中ににゃんちゅうはいないけれど、
そしてにゃんちゅうの実態は魂だと知っているけれど、

失った寂しさはなくなりません。
家族となんども泣きました。
家の中のあちこちを見るたびに、
その場所で見せてくれた愛らしいしぐさや姿が思い出されます。

でもきっとまたあの不思議な目をした魂と、出会えると思います。