スピリチュアリティの深さって?

昨日の話では
身も蓋もなく「災難にあうときにはあえばいい」と書きました。
驚いた方もいらっしゃるかもしれませんが
これ、実は昔の偉い人の言葉なのですが、

誰の言葉だったのか思い出せませんでした。

そうしたら、友人のMさんが教えてくれました。
良寛さんの言葉なのだそうです。

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良寛さんが大きな地震に遭い、その後の安否を聞いた友人への返事。

この一説は、かなり有名だと思います。(↓)

【災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。

 死ぬ時節には、死ぬがよく候。

 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。】

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ということでした。
Mさん、ありがとう~~♪

少し前に「期待」は地獄を創り出す、の最後に

「念じる」のもエゴだ、と書きました。

念じるのはエゴで重たいエネルギーだ、となると、

夢や希望を持ったりするのもエゴなのかしら?

とか、

神社にお参りしてお願いするのはどうなんだろう…

とか疑問が湧いてきてしまいますね。

そこを深めることは、まさに「宗教性」「スピリチュアリティ」のテーマに行き着きます。

行き着くところ

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 ◆夢や希望は必要です
 
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夢や希望は、私たちが生きていくのにはとても大切なものです。

ひょっとして、本当に悟りを開いてしまうと、
もしかしたら全く必要のないものになるのかもしれませんが、
まだそこまで行かない人が大多数でしょうから
そこに向かおうとしている私たちには、必要なものだと感じます。

あれこれ考えていて、フェアリーブルーやこころの露天風呂を立ち上げる前の時期の事を思い出しました。
私はどんな仕事をしても長続きしなくて、
なんとかパートで採用してもらっても、1年半以上続いた事がありません。

秘書の見習いをした時は3ヶ月目に「あなたにはこういう仕事は向いていない」とクビになったし、
気功教室をするという大好きな仕事をもらった時も、
その組織の方針が変わったので、契約切れと同時にサヨナラだったし、
ごく普通にパートをしていた時も、1年半でクビになりました。

なぜ?と一人で
頭を抱えていたのです。

子どもを二人抱えて離婚した私は、途方に暮れていました。
この世の中でなんとか社会人として働いていく、
どこかに永く勤められる自分になる、というのは
当たり前、と思われるかも知れませんが、私には悲願でした。

あの時期、「起きている事は全て正しい」とはとても思えませんでした。

夢や希望を膨らます明るさも持ち合わせなかったし、

子ども達と生きていくために強く願った事が、エゴだとは思えませんでした。

あの時
「豊かに成功するホ・オポノポノ 」があったら
「ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-」が出版されていたら、

どんなに救われただろう、と思います。

そして今の私は、やはりああいう体験は必要だったし
起きた事は全て正しかったなぁ~と
懐かしく思い出すことができています。

あの体験があったからこそ…
社会に合わせて不自由に生きるのではなく、
自分らしい自由な生き方にシフトする事が出来ました。

あの体験がなかったら
何かを変えたい!!と思わなかったでしょうから
今の私は勿論ありません。

というわけで、私はあまりにも根暗で余裕もなく、
夢や希望を膨らませる事は出来なかったのですが、

いま思い返しても
辛い時期、(学びのために)耐えるしかない時期を過ごしている方には特に、
すがるための何かとしてではなく、
自分がどんな方向に向かって進んでいるのか、という羅針盤のために、
夢を思い描き、希望を抱いてほしいと思います。

それは「期待」ともまた違うものです。

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 ◆念じることで、執着しない
 
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最近は様々な能力が開花している方が増えています。
念じる事で、欲しい未来を手に入れる能力を持った方もいらっしゃるでしょう。

意図的にそういう能力を使っている方も、
気付かずにそれを使っている方もいらっしゃるでしょう。

 欲しい未来を手に入れる事の何が悪いの?

 辛い状況をなんとか変えようとする事の、何が悪いの?

なぜ念じるのかと言えば、たった今
この現状が気に入らないからです。

今、与えられている事、今起きている事は
実は祝福なのだと、何かの事情で、受け取れない時ですね。

起きる事の全ては正しいし、全ては実は美しいのだ、
天の織りなすタペストリーの一部として、たった今の瞬間は輝いているのだ、
という事が実感できないと、

今起きている事は不幸で不公平で我慢できないものだ、と感じられるでしょう。

そうなると、なんとしてでも未来を変えたくなる、
変えるしか、なくなるので
念じる、という事になるのでしょう。

これはとても重いエネルギーです。

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 ◆強く念じる人
 
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急に思い出しまし た。
随分前のことですが、とても印象に残っています。

真剣に叶えたい事があって近所の神社にお参りした時の事です。
そこに居合わせた見知らぬ女性は
神社のお賽銭を入れる箱の横で
土下座をして一心不乱に何かを小声で念じていました。すごい気迫でした。

その時はその女性を見て、私には真剣さが足りないのだろうか…
とちょっと反省する気持ちが湧いて来ました。

今の私は、それは違うのではないかと思います。

何かを叶えたいと思う時は、
まずは自分が努力しますよね。

出来る限りの努力を精一杯やって、後は天に任せて
宿ってしまった執着を手放すのがいいと思います。

神社で手を合わせる時には、執着を手放して
自分にとって最高の流れを天が作ってくれる事に感謝するんです。

神様的なエネルギーは
私たちの都合のいい自動販売機ではありませんから、

お願いして
お賽銭を入れたら願いが叶うものでもないし、

念じたら
言う事を聞いてくれるわけでもありません。

神社は念じる場所というより
今与えられているものに感謝を伝えるための場所です。

神社で一心不乱に何かを唱えていた人は、祈っていたのではなく念じていました。
執着を手放せていないのでしょう。

どんな事があっても、自分の思い通りの未来を作りたい、
どんな事があっても、自分の思い通りの結末が欲しい、

そしてそれが叶えば
努力好きの私たちには「美談」「努力家」「すごい人」という事になるのかもしれません…

でも、与えられた環境で精一杯の努力をする。
やれるだけのことをした後は、手放して天に任せる。
天が最善を現してくださる事に感謝する。

次に与えられたものが自分の気に入らないものであっても、
天の采配を信じる。

そんなふうでありたい、と私は思っています。

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 ◆「宗教性」「スピリチュアリティ」の本当のところ
 
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繰り返しますが「念じる」のは、
自分が周りの人や状況、環境をコントロールしたい
出来ると思っているということに、どこか繋がってしまいます。

私たちは子ども時代に
自分が欲しい何かを手に入れるために、

誰かに何かを言ったり
行動したりする方法を体験的に学んできたはずです。

言葉や行動で表現する事で
周りの人から欲しいものを引き出す事が出来るのだ
と学んで、思っています。

さらに成長すると、
他人はコントロール出来ないのだという事が分かってきます。

他人を変えることはできない。

変えられるのは自分の思考と感情だけだ、という事も
学んでいきます

そのとき何かを念じる人は多分、他人や状況を変える事が出来る
とまだ考えている段階の方なのかもしれませんね。

自分にとってのベストは何なのかを
一番よく知っているのは自分だ、と信じているのでしょう。

私は「宗教」には知的な意味での興味があります。
どんな構造になっていて、どんな物語を持っているのか、など
惹かれる部分があります。

でもそれは
「信じる」とか「所属する」という興味ではありません。

私は自分の中での「宗教性」を育ててゆきたいと思っています。
そこでいう「宗教性」「スピリチュアリティ」とは
特定の宗派にかかわらず、自分を越えた大きな存在と
自分との関係を深めてゆく事です。

自分の本体はエゴではなく
内なる源泉であり
それと自分を越えた大きな存在とはイコールです。

内なる源泉や大きな存在は、
私の人生や私という人間について
私よりもよく知っていて、導き、守り、愛してくれています。

そういった事を学び、体験し、深め、信頼していけるようになることが
「宗教性」「スピリチュアリティ」ではないでしょうか。

もしかしたら誤解されている方がいらっしゃるかもしれません。

「スピリチュアリティ」とは、サイキックな
見えないエネルギーに関係する能力を使うことではありません。

高次のエネルギー体とコンタクトが取れる事でもありません。

石や植物などと会話が出来る事でもありません。

霊感が強い事でもないし、幽霊や天使が見える事でもありません。

「宗教性」「スピリチュアリティ」とは、

物質世界だけではない、エネルギーの世界がある事
全てのものに意識がある事を感じ、
自分を越えた大いなる存在を確信し
そこにエゴを明け渡す事です。

個人を越えて、全ては一つの世界に戻ってゆく事です。
我を捨てて他者のために尽くす事です。
自然界との繋がりを取り戻す事です。
自分を愛し、周りの全ての人を愛する事です。
何かのために祈り、結果への執着を捨てる事です。

受け入れていく

与えられた環境を祝福として受け取り、全力を尽くす事です。

そしてそんな理想的な自分になれない
そういう自分さえをも、受け入れて許す事です。