深い存在

実家で母と話していて
亡くなった父の話題になりました。

父は「自分が何の役にもたたなくなったら、生きていてもしょうがない」
とよく言っていたと、母が教えてくれました。

父は激しい人だったので、そして猛烈に役立つ人だったので、
倒れてから後は
「今の自分に出来る事は○○だけだ…」
と言っていたというのも聞いて

ちょっと辛い気持ちになります。

ところで

自分は何の取り柄もないつまらない人間で、
誰の役にも立てていない…

と思った事はありませんか

周りの友人たちの口からも、この言葉が時々出てきます。

少し話は変わって
実家には何本かの果樹が植えてあります。

その中に2本の梅の木があって
毎年梅ジュースにしたり
梅干しにしたりして楽しんでいます。

それが、今年はほとんど実がなりませんでした。
果樹は実をいただくのが目的ですから
実のならない果樹は無駄なんでしょうか?

それは
何の役にもたっていないのでしょうか?

葉っぱばかりの梅の木の下にたたずみながら
母から聞いた父の事を
ぼんやりと考えてしました。

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 ◆「デキる」こと
 
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自分の事を思い起こすと
思春期以降の私は
「何かが出来る人、役立つ人」になろうとしました。

思春期には、当然ですが自分に対する様々な疑問や思いが湧いてきました。

自分が何者なのかが分からなかったし
何のために生きているのか
理由が欲しかったです。

それがあれば生きる事の苦しさが
少しは楽になるような気がしていました。

なので、まずは「何かが出来る人」になろうとしました
でも、多少、何が出来るようになっても
ちっとも苦しさは減りませんでした。

 何かが出来る人になれば…

 仕事で出世して地位が上がれば…

 沢山稼いで生活の不安がなくなれば…

 ステキなパートナーさえいてくれれば…

そうなれば苦しさがなくなり
生きていくのが楽しくなるのではないか…?

結果からすると
それは妄想でした。

そんなものでは私たちは本当の
「自尊心」も「心の安定」や「安心感」も
なにも得られないのです。

もちろん、私だけでなく
多くの方が経験されていますよね。

これにコンプレックスが絡んでいたりしますね。
何かのコンプレックスがあり、
自分に自信が無くて何かができなくなっているので
自信を得るために「援助職」につく人もいます。

過剰に誰かのお世話をする人もいます。

誰かの役に立つことで、自分を支えようとすると、
常に「役に立ついい人」でいなければならなくなります。

いつも目の前の人のご機嫌をとって
気に入られるようにしていなくてはならなくなります。

これをやり続けると
自分がいったい何が好きで何が嫌いなのか、

どんな意見を持っているのかさえも分からなくなってきます。
自分ではない何者かになってゆきます。

これは言うまでもなく
とても辛い人生です。

このあたりの事は
「売春婦元型」ということで
何度か書いてきました。

つまり「誰かの役にたつかどうか」
「誰かに喜ばれる事が出来るかどうか」という事を、

「自分」という存在の中心においてはいけないんです。

止まらない涙

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 ◆役に立ちたい、と思ってしまう
 
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でも、私たち人間は「誰かの役にたちたい」と
どこかで思っているものです。

これはDNAの中に刻み込まれた
プログラムの1つなのではないかと思います。

そのくらい、私たちは純粋に
「誰かの役にたちたい」んです。

誰かの為に何かをさせてもらう事は
なんだかんだ言いながら、純粋な喜びです。

それは上記の事と
矛盾するように聞こえますよね。

という事で、ちょっと整理しましょう。
私たちがどんな風に
成長・進化してゆくのかをおさらいします。

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 ◆もっと多様な存在
 
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生まれてから
思春期くらいまでの子どもは、
両親や学校、地域や社会などにある程度保護されています。

社会的には弱者だから、です。

この時期には
人として、非常に基本的な部分が養われます。

細かい事は抜きにして
ものすごくおおざっぱに言ってしまうと、

「まずは自分」の時期です。

両親や周りの人たちに守られながら
基本的な安心感を基盤に
生きてゆくベースを作り上げる基礎作りです。

思春期に入って
自意識が芽生えてきて
様々な事を考えるようになります。

そこからが本格的な「自分創り」です。

健全なエゴ様と比較的安定した「自分」を
作ることに成功すると

多少の余裕がありますから
他者のために何かをする事が可能になります。

利他の心を持って、誰かのために何かをする…
気づけば、誰かの役に立つ事がテーマになっていきます。

この時には、自分というものがある程度あって
その上でこそ、誰かの役に立つ事をしていける、イメージです

こんな風に理想的に成長できる人は幸せです。

比較的安定した健康的な「エゴ様作り」に時間がかかると
不安定ですから、様々な事が起きてきます。

そんなとき、「誰かの役に立つ自分」を
自分の中心に置いてしまう事があります。

不安定で自信のない自分のつっかえ棒をするような形で
「誰かの為に役立つ事」をすると
誰かの役に立って認められたり、よい評価をもらう事で、自分を安定させようとします。

これを続けていくと相手の評価が必要以上に気になるし、
相手中心に自分の行動を決定する事になってしまうので、
ますます不安定に
ますます不自然で自信のない自分になってしまいます。

自信を得たいために始めた事が
逆にいつも他者の評価を気にして自信のない自分になってしまうんです。

そうなると、あなたのする事は「余計なお世話」になったり
「共依存」になったりしがちで
どこかで爆発してしまいかねません。

ご自分がそういう状態だな、と思うときは
ちっと立ち止まって
相手のことは、ともかく
自分作りから取り組んだ方がいいと思います。

繰り返しになりますが
「誰かの役にたつかどうか」
「誰かに喜ばれる事が出来るかどうか」という事を
「自分」という存在の中心においてはいけないんです。

「自分」という存在を大切に出来るようになること、
「自分の中心」が安定してきて、
多少の余裕がある状態で
誰かの為に役立つ事を考えましょう。

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 ◆必ず価値があるに決まっている
 
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もしも、誰かの役に立つことにしか存在価値がないのだとしたら、
社会的弱者の生きる道がなくなります。
幼子や年寄り、身体・精神障害者の方達は
存在価値がないのでしょうか?

役に立つ事に存在価値を重く置くと
社会的弱者を排除することに
なりかねず
ちょっと暴力的ですね。

でも、幼子は「可能性」の象徴ですし
年寄りは「知恵・成熟」の象徴です。

身体・精神障害者の方は「存在」の象徴だと思うのですが
この3つの中では「存在」する事の深淵を
体験してゆく事が、一番ハードルが高いように思います。

子どもとお年寄りは誰の周りにもいるでしょう。
でも障害者の方は
そんなに沢山溢れているわけではありませんしね。

という事から推理すると、身体・精神障害者のご本人たちと
身内の人たち、そして死を迎えようとしている時期の人たちは、
霊的に高い課題をこなす事を
促されているのだと、考えてもいいと思います。

本人も支える周りの人も
哀れみや同情とは全く違う次元で、
「命」
「生かされているという事」
「存在すること」
の深淵に触れる事が出来るかもしれません。

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 ◆実がならない梅
 
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梅の木の話ですが
2本とも実がならなかったんですが
しげしげと見てみると
数個づつ実がなっています。

それも、すぐに手の届く所に
数個づつ、です。

今年は梅を買ってジュースを作るので
それに加えようと思って
数個の梅の実をもぎりながら、ふと考えました。

この大きな木の、どの部分に実がなってもよかったんです。
それなのに2本とも、私の手が簡単に届く場所になっていた…

どうしてだろう?

植物には高い知性がありますから、
そしてエゴがありませんから、
もしかしたらその実は
私に収穫されるためにその場所に実ってくれたのかもしれません。

何を伝えてくれているのか聴きたくて幹に手を当てると…

梅の木が教えてくれたのは
「分かち合う」という事でした。

実が多くても少なくても
本当は関係なかったんです。

ここは物質界で
目に見える形のあるものが存在の中心になりがちですが
私たちの、そして世界の本質は
「目に見えないエネルギー」です。

結果として実が収穫できるのは喜びで
物質界に生きる私たちはそれを求めがちですが
その前に可愛い花を沢山みせてもらいました。
葉が伸びていく真っ直ぐなエネルギーも楽しみました。

梅の木の下にたたずんで、見上げる葉の美しさや、風のここちよさも。
私は既に沢山の物を分かち合っているのでした。

ほとんど実がならなかったお陰で
私は今までに分かち合ってきたものが
とてもとても沢山あった事に気付かせてもらいました。

私は梅の木と、沢山の豊かさを分かち合っているのでした。

そうすると
「自分が何の役にもたたなくなったら、生きていてもしょうがない」
という価値観で生きていた父の晩年や

「自分は何の取り柄もないつまらない人間で、誰の役にも立てていない…」
と嘆く友人達を思い出しながら
何の役にもたたないでこの世に存在する事は不可能なのだ、ということを
実感するのです。

でも、それを当の本人に
どう伝えればよいのでしょう

今回は、どう表現したらいいのかわからぬままに書きました。
でも、あなたが受け取れる事が1つでもあればいいな、と思います。

自分が変わっても、相手の反応が同じであれば、 同じ事を繰り返してしまいます