いつかは枯れること

「成長する事と、枯れる腐る死ぬは矛盾しないのですか」
という質問をいただきました。
いい質問ですね~♪

では、そもそも
成長するとはどういう事でしょう。

私たちはともすると、光だけを求めがちです。
大きくなり、賢くなり、美しくなり、
よりよい物になることだけを、成長だと考えてしまうことが多いです。

そしてピークを過ぎた後は衰える。
肉体的な衰えが始まり、最後に精神的な衰えが来る。
衰えは成長ではない、という感じがしますよね。

ところが…
そうでもない…かもしれません。

もうちょっと深めてみましょう。

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 ◆循環とは?
 
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植物を見ているとよく分かるように、
芽が出て育って、花が咲いて実がなる。
そして枯れて腐って土に還る。
翌年、またその種から芽が出るという循環がありますね。

何度も循環を繰り返すことで
より環境に適応した品種に進化します。
一粒の種の視点ではなく、その種類の植物という大きい視点で見ていくと
成長する事の中には、枯れて腐って土に還る事も含まれていることになります

自然界は循環していますから。

一人の人間として考えると、
成長とは、自分の中にあるものを1つ1つ認めていく事のすべてになります。
影や闇、イヤな自分、認めたくない自分を受け入れていく事。
それには枯れて腐って死んでいく事も含まれています。

「自分」という一人の個人を考えると
とても分かりにくいかもしれません。
が、魂の連綿たる歴史を考えていただくと
枯れて腐って死んでいく事が成長だと
お分かりいただけるはずです。

枯れて腐って死んでいく事に直面することで、
私たちは本当に沢山の学びを得るのですから。
それを見ていてくださる周りの方達も、
他では得られない事を体験出来るのです。

循環する世界は、全く変わらないのではありません。
螺旋を描きながら進化していくのだと思います。
芽を出して葉を茂らせ、花と実をつけて枯れて腐る。
翌年にまた芽を出して葉を茂らせ、花と実をつけて枯れて腐る。

赤ちゃんが生まれて成長し
沢山の事を学んでカルマも返し、時にはカルマを増やし、
子どもを産んで育てながら、人生の中で様々な事を学んで、老いて死んでいく。

そして、子どもも成長し、沢山の事を学んでカルマも返し、時にはカルマを増やし、
子どもを産んで育てながら、人生の中で様々な事を学んで、老いて死んでいく。

この限りない循環は、螺旋を描いています。

螺旋は、人類全体が作っている成長の螺旋もあれば
民族共同体が作っている成長の螺旋もあれば
一人の個人が作っている人生の螺旋もありうるでしょう。

人間は完全な存在なので、闇も影も死も含んでいる。
宇宙にある全てを含んでいる存在です。
私たちは全体としての一人の人間なのです。

お返事

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 ◆直線的な世界観
 
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少し前に、全体性と完全性の話をしました。
ちょっと乱暴に言ってしまうと、
完全性は騎馬民族の世界観で、直線だけで現せます。
全体性は農耕民族の世界観で、螺旋になることで現せます。

今私が上に書いたのは、農耕民族の全体性の世界観です。

騎馬民族の世界は全く違います。
砂漠で自然と一体化していたら確実に死にます。
自然や動物たちをいかにコントロールするか、が死活問題です。
強力なリーダーが的確な判断をして
全員を引っ張って行かねば、死んでしまいます。

絶対に正しいものだけを選択して、完全完璧を目指してゆきます。
強いものが勝ち、弱い物は負けます。
競争に勝ち抜くこと、戦う事が基本です。

目標を設定し、行動を起こして一歩を踏み出し
夢を叶えて欲しい物を手に入れます。
病気や老化、死を排除し
少しでもよくない事を消し去る事で、完全を目指します。

医療の世界では、病変した部分を手術で取り除いたり、
病巣を放射線で攻撃したりします。
教育の世界では、全国的なテストをして点数や偏差値によってランクが決められます。
能力のある者がエリートコースを走っていきます。
闇や影を排除して、光だけの世界を求めるようになります。

なので、騎馬民族系の完全性の世界では
枯れる腐る死ぬは一種の「敗北」を意味するでしょう。
そこに「美」を見いだす事もないでしょう。
ですから、この考え方をすると
人は肉体的な成長がまず止まり
精神的な成長の可能性は死ぬ間際まであるかもしれませんが
それも枯れて腐って死んで終わり、ですね。

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 ◆世界が一つであるためには
 
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全体性も完全性も、農耕民族の考えも騎馬民族の考えも
どちらも誤りと言うことはありません、正解だと思います。

世界が1つになろうとしている今世紀、
全体性の中に完全性を含めて考えるのがいいように私は感じています。
なぜならば、完全性の中には全体性の居場所はないけれど、
全体性の中には、完全性の居場所があるからです。

完全性の考え方があるからこそ
様々な産業や科学は発達しました。
そのお陰で肉体の耐久年数一杯まで
人生を真っ当する可能性が高くなりました。
様々な便利なものたちのお陰で、私たちに眠る潜在能力も発揮できるようになりました。
思春期の子ども達は、新しい自分を作り上げてゆくために
どうしても、一時的には完全性の考え方を必要とします。

全体性の考え方があるからこそ
様々な違いを持つ世界中の個性的な人たちと、
本当は1つなのだと実感できるのだと思います。

表面では対立している何かも
同じものの違う側面だと感じられるのでしょう。
全く違う文化の人たちも、きっと分かり合って共存していけるはずだ
と、まだ私たちは、信じられるのです。
どれが正解でどれが間違っている、と対立するのではなく、
それぞれの立場、それぞれの考え方、文化などを尊重しあって生きていけるはずです。

なので、全体性の中に、完全性を含めて考えると、
私たちの人生も世界も、より豊かになると思います。
地球が1つになっていくには、それが必要だと私は感じています。

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